浮遊する自己決定―臓器移植法改正によせて―
Drifting Self-Determination−for revision of the organ transplant law in Japan

岡田篤志
関西大学哲学会編『哲学』第二十号掲載

一、町野B案と森岡反論
二、脳死移植法の成立過程における自己決定
三、翻弄される自己決定
四、自己決定概念の捉え直しに向けて

 

 欧米諸国で確立された患者の自己決定尊重の原則が、我が国の医療界にも導入され始めている。医師による非人道的な人体実験、独断的な治療や医療過誤に対抗する患者の自己決定原則は、我が国においても積極的に主張されてしかるべきである。しかし同時に、自己決定原則の持つ独特の理解され難さ、危うさについても十分留意されなければならない。本稿は、脳死移植の立法化と改正に関する議論における自己決定原則の行方を追跡し、脳死移植においてあるべき自己決定原則のすがたを探ることを目的とする。

一、町野B案と森岡反論

 現行の「臓器の移植に関する法律」(平成九年七月十六日、法律一〇四号)は、施行三年後を目途として必要な措置を講じることを附則している(附則二条)。施行三年後は二〇〇〇年に当たる。昨年二月に高知で法施行後初の脳死状態の方からの臓器摘出と移植(以下「脳死移植」とする)が行われて以来、すでに八例の脳死移植を数えている。だが、周知のとおり移植待機者の多くの希望は叶えられておらず、また小児に関しては、依然として高額の費用を要する海外での移植に頼っている現状である。そこで当然、現行法の改正に向けての検討が具体化し、議論も盛んになってくることが予想される。この件に関して、早期に提案されているのが、町野朔氏の改正案である。町野氏は、厚生科学研究の「臓器移植の法的事項」を担当する分担研究者であり、すでに昨年の四月に、「脳死をもって一律的に人の死とし、本人の提供意思が不明の場合は、家族の承諾をもって臓器提供を可能とする」という研究班としての最初の「中間報告書」を提出している。さらに氏は同年の十一月には「『小児臓器移植』に向けての法改正―二つの方向―」1という前報告書と同趣旨の私案の改正案を発表している2。この町野氏の改正案と、それに対していち早く反応した森岡正博氏の反論、「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」3が現時点で注目に値するものであろう。まずはその両者を紹介し検討する。
 改正案における町野氏の主眼は、小児の脳死移植を可能にすることである。現行法に従えば、脳死状態からの臓器摘出は本人による提供意思をまず第一条件とし、またガイドライン4によって、提供意思の有効年齢が十五歳以上と見なされているゆえに、現状では小児の脳死移植は不可能であるからである5。
 そこで町野氏は、小児の脳死移植を可能にするために、二通りの改正の方向が考えられるとする。

 A案―小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰か(親権者)が彼(彼女)に代わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法である。
 B案―死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許されないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとることである。

 一見、二案併記のようであるが、町野氏自身の本心からすればそうではない。特則を加えるかたちのA案に関して町野氏は、本人の提供意思をもって始まる現行法の枠組みを大きく変えることなく小児の脳死移植を可能にすることができ、現実性が高いと評価されるだろうことを予測しつつも、これが「大きな問題」を孕んでいることを指摘する。町野氏によれば、特則を加えるべき現行法自体が本人の提供意思を第一条件としている以上、A案は親権者が小児に代わって小児本人の意思を代行する(忖度)というかたちを取ることになるはずである。だが、それでは脳死状態での臓器提供に関する小児自身の理解と承諾がそもそも困難であるがゆえに、このような代行判断は「擬制」であることになる。また、本人の意思が不明の場合は「遺族」の承諾でよいとする「旧中山案」(旧法案一九九四年四月を示すと思われる)と比較して、どうして小児に対する「親権者であった者」のみが特権的に本人に代わる提供承諾をすることができるのかは疑問であるとする。したがって、町野氏は特則型のA案をその場しのぎの便宜的なものでしかないと評価する。
 町野氏の本命はB案である。B案は、現行法の提供意思を規定する第六条条文を修正することによって、本人がドナーカードによって提供の諾否を表示していない場合にも、「遺族」の書面による承諾によって臓器の提供を可能にするものである。第六条は以下のように修正される。(強調部分が現行法第六条に対して追加・修正されている部分である。)

 第六条一、―医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体([脳死体]を含む。以下同じ。)から摘出することができる。

 文言上僅かな追加と修正であるが、現行法の根本性格が改変されていることがわかる。つまり、@脳死移植の可能性が本人の任意の提供意思をもってのみ開始されることから、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾によって可能となる点、また、A提供意思が表明されている場合にのみ脳死を「人の死」とする現行法の立場から、脳死状態にある身体はすでに「死体」であるとする「脳死一律人の死」の立場へと変更されている。
 町野氏はこれで小児の提供意思の資格や年齢制限を問わなくとも、「子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとる」ことができると考える。
 町野氏も触れているように、この町野B案は、一九九四年四月に国会に提出された最初の法案(旧法案)6と同じものである。旧法案は、本人の提供意思と不明な場合の家族の承諾という二つの提供意思を持ち、また脳死状態の身体を「脳死体」と明記していた。現行法が、旧法案に対して、それぞれこの二点に関して二度の大きな修正を加えることによって成立したものであることは周知のとおりである。したがって、B案を推す町野氏の発想は現行法成立の過程で加えられた二度の修正を白紙に戻して、もう一度原案に帰れということになる。確かにB案自体は、旧法案も同様に、世界的に見れば決して過激なものでもなく、むしろ「拡大意思表示方式」として標準的なものであると言えよう7。また、国内での小児の脳死移植を可能にし、成人に関しても一人でも多くの移植待機者の希望を叶えるという、二つの目的に照らせば町野B案は妥当なものであるのかもしれない。
 しかし、町野氏はB案を以て二度の修正を白紙に戻すことの正当性に関して、何ら説得力のある論理を提示していない。それどころか、旧法案に加えられた修正の意義を根本的に見誤っているのではないかという疑問を感じざるを得ない。これでは鶴田博之氏が次のように言うことを否定できないだろう。「移植推進派としてはずいぶん妥協したと思われる現行法が成立したのは、どんな条件であってもとにかく一例でも既成事実を作ってしまって、後戻りのできない状況から法を次第に都合良く変えて行く、という計算があってのことだろう」8。
 町野氏はB案に関して懸念される「最大の思想的問題」として、「死者の自己決定権」を挙げている。現行法は、脳死状態での臓器摘出を承諾することの本人による明示的な提供意思を第一条件として脳死移植が可能である一方、B案は脳死状態にある者(町野B案によれば「死者」)の提供意思の存否が不明である場合でも、家族の承諾によって摘出可能だからであり、この意味で、現行法が保障している本人による臓器提供の諾否に関する自己決定を蔑ろにすることになりかねないからである9。
 そこで町野氏は、意思の不明、つまり本人の自己決定の不在の場合の取り扱いに関して、法がいかなる「人間像」を前提にしているのかが問題であるとする。町野氏によれば、現行法が意思不明の場合に臓器の摘出を行わないのは、「本人が生前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓の中に持っていくつもりなのだ」というような人間像、「自分が承諾していないのに、死後に臓器を摘出されるのは嫌だという認識を持つ」ような人間像を現行法が前提にしており、それがゆえに、現行法は本人の自己決定を尊重して、意思不明の場合は摘出を不可能としたのである10。一方、人間はそもそも「連帯的存在」であって、意思不明の場合でも、本来は臓器を提供したいはずである。それがゆえに意思不明の場合でも、むしろ臓器を摘出することこそが、本人の自己決定に適っているということになる。
 「我々が、およそ人間は連帯的存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。―たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。もちろん、反対の意思を表示することによって、自分はそのようなものではないことを示していたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそうでない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである」。
 この発想ほど物議を醸すものはないであろう。ここには自己決定の理念についての根本的な誤認が存するのではないだろうか。われわれが何らかの「連帯的存在」であることは確かだとしても、他人の一方的な決定が本人の自己決定に沿うとはどういうことであろうか。しかも問題になっているのは、問題の尽きない脳死移植に関しての決定である。単に摘出に賛成・反対の二元論には収まりきらない様々な意見と思いがあるはずである。摘出を承諾しない者は何も「摘出されるのは嫌だ」という単純な好悪からでもないし、「墓場に臓器を持って」行きたいといういわば吝嗇からでもない。それにもかかわらず町野氏は、一方で町野氏自身の意図に反する自己決定を単なる好悪や人格性に矮小化し、他方、自分の意図に適う自己決定を、町野氏自身ではない脳死状態にある当人の「自己決定に沿う」とし、自己決定の「自己」(あるいは他の者からの視点では「他者」)を抹消してしまっている。これは自己決定概念の根本的な誤認であり、略奪にも等しいのではないだろうか11。さらに、提供意思が不明な場合は家族の承諾に任されるわけであるが、その家族の承諾にしても、提供するのが「連帯的存在」として当然の行為であり、提供しない者は吝嗇だというなら、勢い提供承諾へと圧力をかけることになる。議論を先取りして言うならば、そもそも各自の自己決定を尊重することは、自己の決定を他者に尊重させるという自己の主張だけではなく、他者の存在そのものを尊重することの社会的合意に基礎を持っているのではないだろうか。例えばこの場合、脳死のような重篤な状態に陥った患者を、本人の意思に従って臓器の摘出をするにせよしないにせよ、大事にしてほしい、あるいは脳死が人の死であるとするなら、その遺体に対して敬意を持ってほしいという脳死者を囲む人々や社会の思いがその根になっているのではないだろうか。そうだとするなら、家族に承諾を強要することによって、自己決定を支えるこれらの関係性すら破壊されかねないのである。
 この町野氏の提案に対して、森岡正博氏はいち早く反論(「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」)を加えた。森岡氏の批判は町野B案の二つの特徴に合わせて主に二点ある。@町野氏が、本人の意思が不明の場合でも家族の承諾で摘出可能とする点。A十五歳以下の小児でも親権者の承諾で摘出可能とする点である。
 まず一点目であるが、現在の脳死移植とは、脳死者本人の「善意」、「暖かい善意」(森岡前掲論文二〇〇−一頁)を活かすために開始されており、それこそが脳死移植が正当化される唯一の原則であるとする。そしてこの原則はいかに臓器が不足しているとしても崩してはならないものである。また、本人の意思が不明な場合でも、その中には脳死状態での臓器摘出を承諾しないだろう人も多く含まれている以上、それにもかかわらず家族の承諾があるからとはいえ、臓器を摘出するのは「人間の尊厳」(同二〇三頁)に対する冒涜であるとする。したがって、森岡氏は町野B案に対して断固反対の立場をとる。
 次いで、小児の場合は親権者の承諾によって摘出可能とする点に関しても、森岡氏は、@「子どもの生命は子ども自身のものであって、親のものではない」こと、A「十五歳未満の子どもであっても、自分の死に方と死体の処理のされ方について意思表示する能力は備わっている」という二つの理由によって反対する。小児に関しても本人の意思を最重視するという観点は、十五歳以上の場合よりも特別な重要性が存すると森岡氏は考える。この点は森岡氏の意見の中でもおそらく最も問題喚起力のある部分であろう。
 「自分の生命に関する子ども本人の意思表示というものを、われわれがどこまで尊重できるのかが問われているのである。これは、大人がどこまで本気で、子ども自身の声を聴くことができるのか、という挑戦でもあるのだ」(同二〇四頁)。
 つまり、小児の提供に関する意思を尊重するとするならば、当然、有効な意思が可能なのは何歳であるのかというある種の資格論が課題となるが、森岡氏の論点は、直接的にそのようなものではなく、それ以前に重要なのは、小児自身の生命、死のあり方に関する自己決定を含む小児の存在そのものに対する尊重が問われているのだ、ということである。保護と教育の下にありつつも、決して親や社会の従属物ではなく、自律性を獲得しつつ成長していく子供の存在の、「他者」としての尊重が問題なのである。
 しかし、小児の提供に関する意思を尊重するとするならば、実際に何歳からの意思を有効なものと見なすべきかという現実的な問題が生じる。この点に関して森岡氏は十二歳という目安を設けているようであるが、いずれにしても十五歳を数歳下る児童にも提供意思を自覚的に表示することが可能であるとしている。もちろんその前提として、正確な脳死移植に関する知識の教示と、さらに「死の(に関する)教育」がなされることが必要であるとしている。両者とも成人にすら欠けている現状があり、この点に関する取り組みは、イメージ・コマーシャルや部分的な報道だけではなく、脳死移植に関する正確で真摯な情報提供のあり方の課題を明示することになろう。
 だが、森岡氏の意見では、残念ながら乳児・幼児の年齢での脳死移植は断念しなければならなくなる。今回の法改正のおそらく最大の焦点が、この乳児・幼児を含む小児の脳死移植を可能にすることにある以上、多くの賛成を得られないであろうが、森岡氏の提起した小児の提供意思の重視の視点、子供の命、子供の存在そのものの重みを見据えた視点は、今後の改正論議に深さと慎重さを与えるであろう。
 森岡氏の視点は十分に評価されてしかるべきである。しかし、他方で問題を孕んでいることも見逃せないだろう。問題は自己決定に関してである。
 先ほどの鶴田氏は、結局、森岡氏の結論が「法の改変には反対だが、そのかわりに脳死判定と臓器摘出の対象を、現行の十五歳以上から十二歳以上に下げよ」ということにしかならないとし、これでは「推進者にとって勿怪の幸い」になることを懸念している。鶴田氏によれば、森岡氏がこのような結論に至るのは森岡氏の議論の根底に自己決定の原理が存するからである。
 「森岡氏が町野報告に反対する一方でこのような極論に陥るのは、議論の根底に『生命はその人自身のものである』という原則と、それに由来する『自己決定』の原理を置くからである。生死の選択決定は本人にのみ可能とした上で、子どもに正当な権利を保障するとなれば、形式論理としては氏のような主張になるのも、ある意味でもっともである」12。
 だが、森岡氏は、小児に対して鶴田氏が言うような「生命はその人自身のものである」という「自己所有権」から由来するハードな自己決定概念を想定しているわけではない。
 「私の主張のポイントは、生と死について意見表明能力のある子どもの意見はきちんと聴くべきだということである。遺言の場合と同じ意味での『処分権』を、脳死移植の場面で子どもに与えよと主張しているわけではけっしてない。ましてや、子どもに『死に関する自己決定権』を与えよというものではない」(森岡同上二〇五頁)。
 しかし、そうであるとはいえ森岡氏にしても、提供意思が不明の場合でも「遺族」の承諾によって摘出可能であるとした町野B案に対して、本人による提供意思の優先を掲げて対抗せざるを得ない。つまり臓器提供への何らかの自己決定をである。しかもその意思が「暖かい善意」と言い換えられているのである。問題はこの点である。森岡氏は、脳死移植が正当化されるのはこの本人の「暖かい善意」を活かすことを原則としてのみであり、この原則は他の諸事情にもまして優先されるべきものだとしていた13。臓器提供の意思が「暖かい善意」であり、それが尊いものであることは間違いはない。しかし、脳死移植という微妙な問題を考える場合、この「善意」という言葉の使用にも若干の慎重を要するのではないだろうか。それというのも、脳死状態での臓器の提供意思が「善意」であるのなら、何らかの理由で提供の意思を表示しない者や脳死からの臓器摘出に批判的である者達は、「善意なき者」たち、さらには、人の尊い「善意を阻害する悪意ある者」たちということになりかねないのであり、そうなれば「臓器を墓場に持っていく」という町野氏の表現同様に、提供意思の存否を人格性に矮小化し、脳死移植を神聖化、絶対視することにもなりかねないからである。つまり、森岡氏の言う「善意」も町野氏の「連帯的存在」論に強い親和性を持っており、森岡氏の立論は町野氏流の自己決定の簒奪に絡め取られる危険性が生じてくることも懸念されるのである。
 私見によれば、そもそも「善意」という言葉は、臓器移植を巡る論議の過程の文脈から見るならば、推進派であれ慎重派であれ、議論に関わった各界の者達が自己決定概念を翻弄しあるいはそれに翻弄されながら、自己決定概念にゆがみを加えていった過程で現れてきたものであるように思われる。したがって、「善意」なる言葉の用法の背景には、脳死移植合法化の論議過程において、自己決定概念にゆがみが加えられていった経緯が存していると考えられるのではないだろうか。
 それにしても、町野B案に見られるように、どうしていとも簡単に自己決定は抹消されてしまうのであろうか。推進派は一時、自己決定概念によって脳死移植再開を突破しようとしていたはずである。ところが、このたびは一転して自己決定が放棄されかねないのである。このような奇妙な事態はいかにして可能になるのであろうか。ここで、移植法案成立に関わる議論過程における自己決定概念を巡る評価、所作を顧みる必要があるだろう。


1平成十一年度「臓器移植法に関する公開シンポジゥム」於国際研究交流会館・国際会議場二〇〇〇年二月十八日。原稿は森岡正博氏が運営するサイト「生命学ホームページ(Life Studies Homepage)」http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/index.htmからダウンロードしたものを使用するため頁数は記入されていない。なお、森岡氏のサイトは、森岡氏と協力者によって脳死移植法改正議論のための有用な資料が集められている。
2本稿執筆中、八月二三日に町野氏の「研究班」が正式な報告書を提出した。本人の意思表示が不明の場合、「遺族」の承諾だけで臓器摘出を可能にするのが妥当とするもので、後述する町野氏私案Bに当たる。
3『論座』二〇〇〇年三・四月号二〇〇−九頁。上記の森岡氏のサイトにも掲載されている。
4「『臓器の移植に関する法律』の運用に関する指針」健医発第一三二九号平成九年一〇月八日、ガイドライン第一「書面による意思表示ができる年齢等に関する事項、臓器の移植に関する法律における臓器提供に係る意思表示の有効性について、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、民法上の遺言可能年齢等を参考として、法の運用に当たっては十五歳以上の者の意思を有効なものとして取り扱うこと」。
5そもそも現在の脳死判定自体が六歳未満を判定除外としている。この点の見直しも進められている。今年三月に出された厚生省「小児における脳死判定基準に関する研究班」(班長・竹内一夫氏)の報告によれば、六歳以上では六時間以上となっている判定間隔を二四時間以上に延長し、生後十二週未満の新生児は判定から除外する方向である。
6「臓器の移植に関する法律案」第十二九回国会提出、森井忠良衆議院議員外一四名提出−「旧法案」)。
7現行法は「承諾意思表示方式」Contracting Inであり、本人の意思が不明の場合は家族の承諾でも可能とするのは「拡大承諾意思表示方式」、本人に拒否の意思表示がなければ摘出可能だとするものが「反対意思表示方式」Contracting Outと呼ばれている。
8鶴田博之「『臓器移植法見直し』をめぐる危ない状況」『いのちジャーナル』さいろ社、二〇〇〇年六・七月号、十一頁。
9現行法でもたとえ本人の提供意思があっても、家族の拒否を認めている以上、完全に本人の自己決定を尊重していないのではないか、という指摘に関しては後述する。
10平野龍一氏にも同様の発想がある。「周知のように、フランスやイタリアでは、Contracting Outという制度がとられている。とにく臓器を提供しないという意思を(書面で)表示していないときは、臓器を摘出していいという制度である。これは遺体は公共のものなので、本人の意思は関係がないからだともいわれている。しかし、反対の意思表示は認められているところからみると、人はその本性上、他人のために奉仕するとを喜びとするものだという人間観にもとづくようにおもわれる。もちろん人は少数者である権利もあるから、提供したくない人は提供しなくともいい。しかしそれは例外なので、前もってその旨を表示しておけ、ということになる。わが国では、死後に臓器を提供するのは特別の善行であり、一般の人は自分の臓器はすぐに焼かれる場合でも他人には提供したくないと思っているものだという前提になっているのであろう。提供の意思を明示していないのにその臓器を摘出するのは、その人の潜在的な善意を実現するものではなく、その人の人権を侵害するものだというのであろう。そこに人間観の違いがあるように思われる」(「三方一両損的解決―ソフト・ランディングのための暫定的措置」『ジュリスト』No.1121,一九九七年十月号、三七−八頁)。
11町野氏の持論としては、以前から、脳死移植立法に関して自己決定を用いるのには否定的である。町野氏は脳死を人の死とする脳死説を採り、脳死を人の死としないで致死的な臓器摘出を違法性阻却等によって正当化する立場には反対である。人の死は法律的にも「客観的」であるべきで、個人の自己決定によって左右されるものではないとするからである。例えば、町野氏「脳死者からの臓器の摘出」『法学教室』No.153,一九九三年六月を参照。したがって、町野氏がここで「自己決定」の概念を用いているのは、ある種、イロニックな意味が込められているとも考えられる。
12鶴田前掲論文、九頁、また続編「歪められた自己決定」『いのちジャーナル』二〇〇〇年八・十月号、八−十三頁も参照。
13森岡氏は別のところでも「本人の善意」を強調している。「……移植はなぜ必要なのか、なぜ移植をするのか、と言ったときに、移植というのは脳死になった本人の善意をいかすものであるから、それをみんなで保証していこうということだったと思うのです。ですから本人の意志がある時にのみ、脳死の人から臓器摘出をするということを原則にしているという非常に筋の通った法律なのです。」(「子どもの意見表明権と臓器移植法の思想―日本から発信すべき二つの論点」二〇〇〇年七月二日シンポジゥム「いのちと死を見つめる」於上智大学カトリックセンター)。ところで、森岡氏は、臓器移植の提供意思に関して三段階の進展を見ている。@家族へ渡った遺体の処分権に基づいた家族だけの承諾、A家族の承諾と本人の提供意思、B本人意思の最優先。この意味で、我が国の「臓器移植法」は世界的に先進的なものであると評価する。森岡氏が「善意」を強調するのは、以上のような発想も背景にある。また、脳死移植を美麗な言葉で飾ることの危険をいち早く指摘したのも森岡氏であることも付言しておく(『生命観を問いなおす』ちくま新書一九九四年、一四三頁以降参照)。

 

浮遊する自己決定A二、臓器移植法の成立過程における自己決定

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