浮遊する自己決定B

三、翻弄される自己決定

 小松氏の指摘するように、脳死移植の法制化の論議で自己決定概念が全面に現れてくるのは、日本医師会生命倫理懇談会「脳死および臓器移植についての最終報告」(一九八八年)である。
 まず、自己決定概念が登場する文脈から見ておこう。報告書は、脳死は「人間の生物学的な死」であるが、それを以て「社会における人間の死」とするには、「文化的・社会的伝統の中で、自ら定まるものであろう」とし、一見、社会的合意を必要としているかのようであるが、後述するように、この「社会的合意」に全く重きを置いておらず、脳死を人の死とすることは前提にしていると言ってよい。したがって、脳死判定で脳死と認められれば、人の死を意味する。そこで、「脳の死による死の判定」をすること自体に、判断能力のあった時点での本人や家族の承諾が必要かどうかを問題にする。報告書はこの点に関して、死の判定は医師によって「客観的に」なされるのが「本来」であるが、脳死を人の死とすることに十分納得しない人が少なくない現状では、患者や家族に「同意を得て行うのが適当である」とする。そこでこの「同意」に関して、自己決定概念が登場する。再度引用すれば、
 「現状では、脳の死による死の判定がまだ一般的に公認されたとはいえない。しかし、脳の死による死の判定を是認しない人には、それをとらないことを認め、是認する人には、脳の死による死の判定を認めるとすれば、それでさしつかえないものと考えてよいであろう。このことはまた、自分のことは自分できめるとともに、他人のきめたことは不都合のないかぎり尊重するという、一種の自己決定権にも通じる考え方であるといえよう」(中山『資料に見る』九三頁)。
 文脈に注意が必要である。脳死判定の実施には、「本来」なら同意は必要ないが、脳死を人の死をすることに納得しない人が少なくない現状では、やむを得ず同意を得るのが適当であるとし、本来ならば必要のないこの同意に関して自己決定権が言われるのである。ここで報告書が自己決定概念に与えている位置が分かる。それは二次的なものであって、本来なら必要のないものであり、移行措置として暫定的に要請されているに過ぎない。ということは、もし日本医師会による「教育的ないし啓蒙的活動」(同九八頁)が功を奏して、脳死を人の死とすることが広く納得されるようになれば、自己決定は廃棄されるのであろうか。現行法から町野B案への移行を彷彿とさせるものである。しかもこうして二次的に用いられている自己決定概念が、「死の自己決定権」なのである。それは医療関係において主張されている自己決定権の中でも最もデリケートなものであり、多くの議論が必要なものであるはずである。また死の自己決定権の場合、それを肯定するためには、植物状態患者、「寝たきり」患者に対する治療やケアの拡充ないし緩和・終末期ケアやペインコントロール等の充実など、医療の環境改善が先決課題である。それがなければ死を自己決定させるという最悪も招きかねない。それにもかかわらず、そのような自己決定権を、しかも二次的に用いているのである。報告書が自己決定概念に関して驚くほど貧しい評価しか持ち得ていないことが分かる。
 さらにその直後にも、患者本人の意思と家族の意思との関係如何に関して言及されている中でも「自己決定権」が用いられている。
 「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる。医療に関する決定については、患者本人の意思が第一次的であり、家族の意思は、患者が未成年者あるいは未成熟者か、または意思表示が不能な場合に、その代人として第二次的に問題とされるわけである。
 しかし、脳の死による死の判定の場合には、前述のように、患者本人または家族の同意を要件とするものではなく、社会的な礼節上、その意思を尊重してその同意を得て行うのが適当であるということである。したがって、本人の意思か家族の意思かを厳密に論じることは、ここでは必ずしも必要ではない。そして、その場にいるのは家族であるから、通常は家族の同意を求めることになる」(同九三−四頁)。
 引用冒頭の「近頃、患者の自己決定権ということがいわれる」というくだりが本来意味すべきなのは、まずは患者の権利擁護として主張される医療者に対する患者の自己決定権であるはずである。特に脳死移植が「見えない死」を待って始まる医療であり、術後管理に困難が予想される医療であるがゆえに、医療側の独断、専断が最も排除されるべきはずである。医師会として銘記すべきなのはまずこの点である。そもそも自己決定権は、単独化した個々人の任意の選択を保障するといったように没関係なものではなく、まずは支配、圧力が行使されている関係の方向性に注目して保障されるべきものと捉えなければならないだろう。「患者の自己決定権」が差し向けられているのは、医師側の態度改善へである。それにもかかわらず、医師に対する患者の自己決定権に関する記述は全くなく、もっぱら本人とその家族の関係に終始している。しかも、その本人と家族の意思の関係すら、自己決定権が付随的に考えられている以上、論じる必要もないということである。
 また、報告書が社会的合意を不要として自己決定によって脳死移植の解禁を狙ったものであるという批判は、小松氏だけではなく以前から多くの論者によって指摘されていたことである(註17参照)。確かにその社会的合意の扱いに関しても、注目すべきものがある。
 「概して時期尚早論者の説く社会的合意論は、国民の大多数の納得が必要だという心情を表しているに過ぎず、何をもって社会的合意とするか、またどうすれば社会的合意の成立が確認されるかについて、具体的な要件や手続きを明示していない。そのような社会的合意論は問題を徒らに曖昧のまま先送りすることにしかならないであろう。
 社会的合意を成立させ、確認する最も明確な方法は、国会による立法である。それは多数決原理によって国民全体の意思となり、反対の者をも拘束することになる」(同九七頁)。
 おそらく社会的合意を求める「心情」には、現在の医療者の態度では脳死移植というデリケートな医療を任すことはできない、とする人々の不信に応答しなければならないという医師会の一部の者の良心があったはずである。しかし、報告書はこの「心情」を切り捨て、社会的合意が必要であるならば、国会内で多数を掌握して立法化すればよいと考える。そうすれば反対派を「拘束」できる、と。自らに向けられている不信に応えることなく、反対派を立法によって拘束することこそ社会的合意の形成だといわんばかりである。また他方で、報告書は、「脳の死による死の判定」について、社会的承認を得ているとみなす19。しかし、それは、脳死を人の死とすることの承認ではなく、そのように承認する人を認めることの承認である。「個々の患者またはその家族」が了承すれば、それに他人が異議を唱えることはできないはずだ、ということである。
 社会的合意の意味を誤認し、医療者の根本的な態度変更を含めた医療における環境改善の課題に目を向けることなく、不信感を与える態度、環境を温存したまま、脳死を人の死とすることを個々の患者、家族の承諾へと終極させる。懇談会報告書が自己決定を用いているのはこのような立論においてである。「孤立化支配型の自己決定概念」20とでも言うべきであろうか。そして「善意」なる言葉が登場するのも、このように自己決定概念に対する誤認が甚だしい報告書の最後においてである。
 残念ながら、脳死移植の合法化に関する初期の論議の中で自己決定概念が用いられたのは以上の次第である。その後の法制化への動きは、一九九二年に脳死臨調の最終報告が出され、一九九四年四月にはいよいよ法案が国会に提出されることになる。当初の法案は、脳死を一律人の死とし、本人の提供意思が不明の場合は、家族の承諾によって臓器の摘出を可をするものであった。
 そこで次に、自己決定概念に関する評価の変遷過程で取り上げなければならないのは、旧法案の提出を受けて、その翌年に日弁連が発表した「『臓器の移植に関する法律案』に対する意見書」(一九九五年三月)21である。当意見書は、脳死を人の死とすることなく、本人の提供意思があり、かつ家族が拒まない場合にのみ臓器の摘出を可とするものであり、脳死臨調少数派や民間の研究会「生命倫理研究会・脳死と臓器移植問題研究チーム」(石原明氏、立花隆氏ほか)の提案(一九九一年)、その後の金田・猪熊案と同じ系譜に属すものである。しかし、特に意見書で注目すべきは、この種の文書としては最も多く自己決定概念を用いているにもかかわらず、それらはすべて医療者の態度変更、医療環境の改善に向けて方向づけられている「患者の権利としての自己決定権」としてである22。したがって、自己決定概念の捉え方は先に見た懇談会報告書とは対極に位置するものである。
 意見書はまず、脳死を人の死とすることの社会的合意が不在であること、脳死を人の死とした場合に、例えば「ドナー本人の意思を無視した臓器摘出、脳死判定後に臓器摘出と無関係に行われる医療の停止、脳死体の医学実験、医療資源としての利用」(町野『資料』六八頁)など深刻な人権侵害が生じることを指摘し、脳死を人の死とは見なさないとする。さらに、本人の意思の家族による「忖度」を許すなら、脳死を人の死とすることを認めない者や躊躇している者から臓器摘出が強制される可能性があること、また、法案は家族への承諾意思確認に主治医の関与を認めており、家族自身にも不当な圧力が加わるおそれもあることを理由に、本人の明確な提供意思がある場合のみ、摘出可能であるとする。だが、意見書の最大の強調点は、脳死移植を再開するためには、その条件として、患者の権利が保障されるように医療環境の改善がなされていなければならないとしている点である。
 「……日弁連は本法案に反対である。最近、臓器移植をめぐり、脳死判定前に臓器保存のための処置が行われたなどとして各地の弁護士会に人権救済申立てが行われる例が相次いでおり、医療に対する不信はいまだに払拭されていない。患者の権利が十分に保障されるよう医療の現状を改善することなど、検討を要する問題が多々存する」(同七一頁)。
 では、自己決定概念の扱いに関してはどうであろうか。冒頭の「日弁連の基本的立場」とされている四項目目には「摘出・移植を実施する医療施設は、日常診療においてもカルテの閲覧謄写権、患者の自己決定権など、患者の権利が十分に尊重されている施設でなければならない」(同六七頁)とし、自己決定概念を登場させている。意見書が自己決定概念を用いるのは、この文脈である。まず本文においては、法案にはレシピエントの自己決定権の保障が欠如していることを指摘している。
 「臓器移植医療において、臓器提供を受けるレシピエントは、移植による生存や社会生活復帰の可能性や程度、移植術の具体的危険性、術後の様々な負担、移植術を行わなかった場合の予後などが十分に説明され、理解した上で移植を受けるかどうかを自ら決定する手続き(インフォームド・コンセント)が保障されなければならない。しかるに法案は、単に医師の努力義務を課しているに過ぎず、レシピエントの自己決定権は全く保障されていない」(同七一頁)。レシピエント側の自己決定の保障は見逃されがちであるが、意見書はこの点に注意を向けている。それは推進する医師に「患者さんがお望みであるから」という口実を与えるものとしてではなく、むしろ決定の条件としての医療環境の整備を拓くことに向けられた患者の自己決定権の意味においてである。意見書はさらに、先に日弁連が採択した「患者の権利の確立に関する宣言」(一九九二年第三五回日弁連人権擁護大会採択)とその「提案理由」を再録し、いわゆる「インフォームド・コンセント」の原則を中心として、カルテの閲覧・謄写権、患者の権利擁護システムを含む患者の権利法制定やガイドラインの作成の必要を訴えているが、拡充されるべきこのような患者の権利の基底に自己決定権を据えている23。つまり意見書は、自己決定概念を、相次ぐ人権救済申立ての止まない医療界の現状に対抗し、患者の諸権利を確保し医療環境の改善を要求するためのキーワードとして位置づけていると言えよう。意見書における自己決定概念の使用はこの意味に限定されており、脳死状態での臓器提供の自己決定あるいは脳死を以て自らの死とすることの自己決定に関してではない。意見書が自己決定概念を以て専心するのは、提供と死の自己決定以前に、まず患者が真正な意味での自己決定ができる医療環境の実現である。もちろん意見書が、脳死を人の死とはせずに、脳死状態での臓器摘出を許容する以上、提供の自己決定、さらには提供しつつ「死ぬこと」の自己決定の可能性を開いていることは否定できない。だが、注意しなければならないのは、両者は同一ではない。「提供の自己決定」と「環境改善を拓く自己決定」には差異があるはずである。この差異が抹消されてしまえば、脳死移植の議論において自己決定概念はその本来の意義を失い、かえって逆の効果を産む危険がある。しかし、残念ながらこの差異を見えなくする方向に働いたのが金田・猪熊案である。
 周知のように金田・猪熊案は、脳死を一律人の死とする中山案への対案として、@脳死を人の死とせずに、A本人の事前の提供意思がある場合に脳死状態からの臓器摘出を可とするものであった。まず、脳死を人の死とはしないという点について、金田誠一氏の法案趣旨説明によれば24、脳死を人の死とする合意がない、看取る者の感覚から死とは実感できない、治療停止への不審、脳死者の利用など人権侵害が危惧される、法律的混乱を招く、などが理由とされている。この点、先の日弁連意見書とほぼ同じ発想である。金田氏によれば、そもそも脳死移植は、イギリスやドイツのように医学界自身が自らの努力で国民の信頼を得ている場合には、法律を必要とせずとも可能であり、また人の死に関して「トップダウンで国家が普遍的な定義を押しつけるのは間違い」である。それにもかかわらず、国内で法律が必要なのは、和田移植事件等に由来する医学界への不信とカルテの開示すら行っていない日本の医学界の特殊性に起因する。「本来であれば、移植学会を中心とする専門家の方々は、法制定による解決を求める前に、自己責任においてこうした本質的な問題に正面から取り組んでいただきたかったと思います」。金田氏も日弁連意見書と同様に、医学界の体質への疑問、医療の民主的環境づくりの遅れを指摘する。だが、金田氏はこの点において自己決定概念を用いてはいない。
 では、脳死を人の死としないで、死を招くことになる臓器摘出はいかにして可能であるのか。そこで要請されるのが、本人による提供の自己決定権である。
 「本法律案は、医師が移植のために脳死状態の人の身体から臓器を摘出してよいかという医師の視点からでなく、脳死状態になった自己の身体から臓器を提供してよいか、その臓器提供により死期を早めることになってもその権利行使は許容されるかというドナー、提供者本人の自己決定権の視点からとらえます。そして、そのような権利の行使、つまり提供行為には医師の摘出行為が不可欠であり、その権利行使に関与する医師の行為を許容してよいかという形で医師の摘出行為の是非が問われることになると考えます」(同)。
 猪熊重二氏の説明では、「ドナーが自己決定に基づいて、脳死状態に陥ったら、その正当な要件のもとの脳死判定を受けて回復の見込みがないということをみずから納得したときには、私にもし世の中に役に立つことがあればということの本人の自己決定を尊重し、またレシピエントの臓器をいただいてもっと生きたいという、両方の命を、特にドナーの自己の生命の尊厳に対する自己決定を尊重しようということでこういうことを考えました……」25。
 法案は、脳死移植という医師の医療行為を直接正当化するのではなく、まずドナーの臓器提供が患者自身の自己決定の尊重というかたちで正当化されている。主導権はドナー側に移行し、医療側の専断を排除するかたちになっている。脳死状態からの臓器提供は死を招く以上、医師の摘出行為の違法性を阻却する法的工夫の必要もあった。しかし、ここで重要なのは、自己決定概念の跳ね返りが生じていることである。つまり、自己決定概念が、当初主張されていた「環境改善を拓く自己決定」から「提供の自己決定」へと反転しているのである。法案の発想それ自体は日弁連意見書ないし脳死臨調少数派と同じものであるが、自己決定概念のこのような移動がある点、ここには重大な転換が生じていると言わなければならない。確かに法律案として提出されたものである以上、死に至る提供行為に十分な法的根拠が必要とされた。そこで用いられたのが、本人の提供への自己決定権である26。しかも、生者が心臓などの臓器を提供するという特殊な自己決定の内容に対しても、重大なコーズがなければならない。それゆえに、臓器提供の行為を殊更ヒューマニスティックなものと位置づけなければならなくなる。ここがまさに、生きたままの臓器提供を「キリスト教の愛の行為」ないし「仏教の菩薩行」に模した脳死臨調少数派の発想と、自己決定概念が合流する地点である27。
 ところで一方、中山案はその原型にあたる「臓器移植法案の骨子(脳死及び臓器移植に関する各党協議会検討素案)」(一九九三年五月)28の段階から次のような四項目を基本理念として掲げていた。
一、臓器の提供に関する本人の意思は、尊重されなければならないこと。
二、移植術に使用されるための臓器の提供は、任意にされたものでなければならないこと。
三、臓器の移植は、移植術に使用される臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ、移植術による臓器の機能の回復又は付与が必要とされる者に対して適切に行わなければならないこと。
四、移植術を必要とする者に係る移植術を受ける機会は、公平に与えられるよう配慮されなければならないこと。
 本人の「提供に関する本人の意思」の尊重が先頭に立ち、二番目にその意思が任意であることが言われている。順序に何らかの意味があるとするなら、素案は医師会懇談会の発想を継承していると考えられる。というのも、素案は、懇談会報告書と同様に脳死は人の死であることを前提とし、また、提供意思の尊重を、その意思の任意性を確保することの課題よりも優先しており、このことは、社会的合意の不在にもかかわらず本人の提供意思を自己決定権によって不可侵とみなす懇談会の意図と重なるからである。ところが、対案であるはずの金田・猪熊案はこの素案の基本的理念の項目順序を全くそのまま踏襲しているのである。金田・猪熊案が、脳死臨調少数派や日弁連意見書の精神を引き継ぎ、提供の自己決定の尊重に先立って、その前提として、医療環境の現状へと対抗しつつその改善へと向けられる患者の自己決定権を重視するのであるならば、当然この基本理念の項目順序も組み替えるべきであったはずである。それにもかかわらず、当案がこれをそっくり採録しているのは、先に指摘したように、自己決定概念を「環境改善を拓く自己決定」から「提供の自己決定」へと移動させてしまったことに由来するのではないだろうか。
 このようにして、社会的合意の不成立や医療環境の不備を懸念して非脳死説・心臓死説の立場から法的工夫によって臓器摘出の余地を模索する慎重派の帰結は、脳死説を前提し社会的合意、看取る者の感情を重視しない推進派と、自己決定を軸として合流することになる。現行法が、この両者の妥協であるか、それとも小松氏の言うように自己決定に関して新たな段階にあるものなのかは別としても、この合流点に位置するものであると言えよう。
 このような経緯を経て、提供の自己決定は「善意」と類義語となり、自己決定は専ら「提供」の選択肢に傾倒していく。自己決定概念と「善意」とは本来、全く別物であるにもかかわらずにである。脳死移植において「善意」なる言葉を用いることの胡散臭さ、また自己決定概念を素朴に楯にすることの危うさは、以上のような事情に由来するのではないだろうか。そして、おそらくこのような経緯の延長線に現れてくるのが、本人の意思が不明な場合でも、臓器を摘出することは「本人の自己決定に沿う」とする町野氏の「連帯的存在」論のような発想ではないだろうか。脳死を一律人の死とすることが、既成事実化とイメージ・コマーシャルの誘導によって下意識に定着していく一方で、自己決定概念と「善意」とのゆがんだ一体化によって、「善意」が強要され、皮肉にも自己決定概念が抹消されるという迷路が敷かれているのである。

19その根拠として報告書は、「保健医療サービスに関する世論調査」(総理府一九八七年)を持ち出す。「『脳死を死と認めてよいか』について、『認めてよい』が二三・七%、『認めない』が二四・六%であるが、『本人の意思や家族の意思に任せるのがよい』が三六・七%あるので、これと『認めてよい』を合わせれば六○・四%となる。したがって、脳死を認めることについては、すでにかなりのところまで社会的合意ができていると考えてもよいと思われる」。ここに数字の曲解が一目瞭然である。「本人の意思や家族の意思に任せるのがよい」と「認めてよい」が合算されることはないはずである。
20中山研一氏は「個体化方式」という言葉を用いている。「……報告書が患者側の意思による解決に固執するのは、上述の批判にもあったように、現状では脳死説を一律に適用することが因難であり、反対がなお少なくない現状の下で、実際に脳死による死の判定を部分的にでも実現するためには、是認する人には脳死による死の判定を認め是認しない人には認めないという個別化方式によって処理する以外に方法がなく、しかもそれは患者の自主性の尊重にもかなうという大義名分を持ちうると判断されたからにほかならない」(「脳死と臓器移植をめぐる問題の再論」(二)『警察研究』第五十九巻第七号、十五頁。
21町野朔編『資料・生命倫理と法T脳死と臓器移植(第三版)』信山社一九九八年六六−七七頁所収。
22脳死臨調少数派意見もこの意味で二ヶ所「自己決定権」を用いている。「摘出・移植を行う施設が、先端、実験医療のみならず、日常の診療においても、患者の権利、なかんずく自己決定権を尊重する制度を設けていなくてはならない。ここに自己決定権を尊重する制度としては、インフォームド・コンセントのガイドライン、診療録などの閲覧・謄写制度などがある。この点は、医に対する信頼の回復のために、必要不可欠である」(中山『資料に見る』一三四頁)。
23さらにこの自己決定権は、「生命に対する固有の権利、到達可能な最高水準の身体・精神の健康を享受する権利」、「幸福追及権(憲法一三条)、国際人権B規約六条、A規約十二条など」に基づけられるとしている。
24一四〇回衆議院厚生委員会十一号、一九九七年四月二日。
25一四〇回参議院臓器の移植に関する特別委員会〇三号 一九九七年五月二十六日。
26心臓死説からの違法性阻却による臓器摘出の正当化において、自己決定権を中心に置く発想はすでに法学者達によって模索されていた。酒井安行「生体からの摘出は絶対にできないか」『法学セミナー』Vol37.No.9 453号一九九二年九号、川口浩一「脳死と臓器移植についての一つの提案」『奈良法学会雑誌』二巻二号1989年、大谷実『刑法講義総論』成文堂一九九四年、第四版補訂版三〇九頁、丸山英二「脳死臨調中間意見に関する若干の感想」『ジュリスト』987号一九九一年一〇月二一頁など。中山『脳死移植立法あり方』成文堂1995年、第六章九九−十二七頁と石原明『医療と法と生命倫理』日本評論社一九九七年二八五−九頁に諸説の紹介、検討がある。
27前註で挙げた模索の中にもすでにこのような傾向は存在していた。例えば、「本人が、受容者の救命に役立てるという愛他的な目的のために、自らの身体から移植用臓器が摘出されることを希望する意思を表明していた場合に、それに応じてなされる臓器摘出行為は、患者の希望をかなえるという点で患者の人格・尊厳を重んじる行為」である(丸山前掲論文二一頁)。
28中山前掲『脳死移植立法のあり方』所収。

 

浮遊する自己決定C四、自己決定概念の捉え直しに向けて

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送