小児臓器提供―「沈黙」の手前で―

岡田篤志

はじめに
T 沈黙への気づきと騙り
U 聴く・沈黙を護る
V 沈黙と倫理、沈黙と死の物語
註・文献表

はじめに

 現行の臓器移植法に改正の動きがある。改正点は多数指摘されているものの、最大の焦点は15歳以下の脳死状態にある者からの臓器摘出の可否と条件に関してであろう。周知のとおり現行法*1では、本人の提供意思が書面で示されていることと、家族がそれを拒否しないことの二重の意思条件が必要とされている。しかし、ガイドライン*2によれば、本人の提供意思が有効とみなされるのは、遺言の有効年齢に合わせて15歳以上である。たとえば15歳からの心臓提供があったとして、サイズによっては7〜8歳までの待機者に移植可能であるとされているが(北村ほか2002)、それ以下の移植の必要な患者は国内での移植が不可能な状態である。この点を改善する案として、@15歳以下は親権者の承諾で可能とする、A年齢にかかわりなく本人の提供意思が不明の場合は近親者の承諾で可能とする、B15歳という年齢制限をたとえば12歳あるいは6歳まで緩和する等が提案されている。Bの年齢制限を緩和する場合は、あくまで本人の提供意思が何らかのかたちで確認されるが、必然的に下限がともなう。小児用の脳死判定基準に由来する下限以外の年齢制限を解放しようとするならば、基本的に@かAの選択にならざるを得ない。しかしそうだとすると、判断能力はあっても臓器提供に関して何も意思表示していない人からも、また、判断能力が認められず臓器提供に関して意思表示できない人からも、家族の承諾があれば脳死状態での臓器摘出がなされることになる。脳死状態での臓器摘出に関して本人は「何も言っていなかった」のに、あるいは「何も言えなかった」のに、そのような「沈黙」を越えて臓器が摘出されるのである。いまやこのような「沈黙」について、どのような立場をとる論者であれ、多かれ少なかれ懸念し、動揺しざるを得ない事態に至っているように思われる。本稿は、今回の臓器移植法改正を巡る論議を、「沈黙」にいかに対応するのか―沈黙をいかに埋めるのか、あるいは沈黙をいかに護るのか―を視座にして考察する。

T 沈黙への気づきと騙り

 最初に、当該問題において「沈黙」という語が含意している意味内容を分節化しておこう。まず、意思表示の不在、つまり書面にせよ口頭にせよ判断能力があったときに提供するかしないかの意思を表示していなかった人の沈黙がある。そして、意志能力の不在、つまり小児や知的障害等で臓器提供に関する判断能力が認められない人の沈黙がある。また、現行法においては一定の条件が揃えば人の死であるとされる脳死状態の人の沈黙もある。これらは提供意思条件の検討に直接にかかわりがある。しかし、これだけではなく、脳死状態の人の沈黙と重なるが、たとえ判断能力があった時点で提供の意思表示がなされていたとしても、実際に家族が承諾を考慮する際に本人にその意思を確認できないという意味での沈黙も指摘できる。さらに、その後に続く死そのものの沈黙もある。後二者の沈黙は提供条件の議論には直接かかわりはないけれども、肉親の臓器を提供して死を看取った遺族*3にとっては、喪の心理の中で大きな意味を持つものと考えられるし、脳死した者ないし死者からの臓器摘出を正当化し法制化している社会にとっても、何らかの意味を持つように思われる。脳死ないし心臓死後の臓器提供の問題は、このような幾重もの沈黙に取りまかれている*4。まずは、提供意思条件の議論に直接かかわる沈黙に注目して、諸改正案をみていこう。

 厚生科学研究として出された町野案(町野2000a)は、脳死を一律人の死とした上で、a)15歳以下に限っては親権者(親権者であった者)の承諾で臓器摘出を可能にする特則型のものと、b)年齢にかかわりなく意思不明の場合は遺族の承諾で可能とするものの二案を提示している。しかし、町野案はa案を論難しつつ最終的にはb案を推している。そして、a案を論難する仕方に、町野案が或る程度、沈黙への気づきを示していることが伺われる。
 本人の自己決定権を第一義としている現行法のもとで15歳以下は親権者*5の承諾で可能とする際、親の承諾は子供の意思決定の代行であることになる。しかし、実際に意思決定をしていない以上、意思決定の代行という論理は「擬制」ということになる。自己決定権は一身専属的なものであるからだ、と町野氏は言う。また、意思決定の代行ではなく、意思の推定、忖度によって、本人の意思にできる限り接近しようとしたとしても、意思決定ができない年齢以下の子供に関しては、これも「擬制」になるか、あるいは不可能になるかであろう。この意味で町野案は論理的には意思の推定、忖度を採らない。では、意思決定できない子供の場合に対処するために、親権者が子供の意思の代行でも忖度でもない仕方で提供の意思決定を行うとしても、それは「子の監護及び教育」という親権者の権利、義務の範疇外となる。つまり、町野案は、意思代行の擬制、推定・忖度の不可能性や親権の範疇外という理由でa案を論難することによって、意思表示能力が不在である子供の沈黙に対して敏感に反応していると言えるのではないだろうか。しかし、ここで町野案は発想を大きく転換する。意思が不明の場合は提供の拒否を意味していると前提するのではなく、意思を表示していなくても、およそ人間は他人に善意を示す資質を持っている存在であるから、家族の承諾のみで移植用の臓器を摘出したとしても、「本人の自己決定に沿う」(同上)というのである。「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」(同上)からである。意思代行や意思推定を否定した上で、なお意思不明者や意思不能者の臓器摘出を可能するために、自己決定は最初から臓器提供に定められているとするのである。しかし、この立論ではおよそ本人の意思とか自己決定という概念は無意味となる。町野氏はいかなる人間像を前提にするかの問題であるとする。現行法は、提供意思表示がなければ提供しない人間像を前提にしているが、翻って、最初から臓器提供に決めている人間像を前提にしよう、というのである。こうして町野氏は、意思不明の人や意思できない人の沈黙に鋭く感応したかにみえたが、臓器提供する人間像の前提によって、一挙に沈黙を封じ込めてしまうのである。
 また、町野案は脳死を一律人の死とする。町野氏によれば、「生きている人から移植用の心臓を摘出するなどということは当然許されない」(町野2000b)。脳死を死としないで本人の自己決定によって臓器摘出する違法性阻却案は「きわめてグロテスクである」(同上)。だが、脳死状態を生としようと死としようと、指示している事態は同じものである。脳死状態の人は呼吸器によってであるが呼吸があり血色もよく体温もあり、ときに動いたりもする。もちろん語りはしないが、死んでいると即座に言い難い。町野案はそのような脳死状態の人を死体とみなし侵襲性のないものとすることによって、家族の承諾のみでの臓器摘出を正当化する。これは脳死状態の人のいわば「生ける沈黙」とでもいったものを封じ込める所作であるとも言える。この意味では、「生と死の境界線をあいまいにしたまま」(同上)の現行法や違法性阻却論のほうが、一律に脳死状態を死とせず事前の本人の提供意思を重視する点、脳死者の「生ける沈黙」にいくぶんか配慮しているように思われる。
 ところで、町野案は結論的に提供条件に関しては、脳死を人の死とし、意思不明の場合は家族の承諾で臓器摘出が可能であるとする旧中山案に戻れとするものであり、そして旧中山案は提供意思条件においては、すでに存在していた角膜腎臓法*6に基本的に一致している。脳死者を一律死体扱いするのであれば、脳死状態からの摘出条件を死体からの摘出を定めた角膜腎臓法と統一させることは、角膜腎臓法の20年以上の実績や法の整合性からから考えて一理あるのかもしれない。しかし、「国民に支持されてきた」といわれる旧法に新法を統一させることによって議論を収める仕方は、もはやそう容易なものではない。むしろ逆に、新法成立過程の議論によって旧法の問題も浮かび上がってきている。たとえば、「心停止後」の腎臓摘出といえども家族の提供承諾さえあれば、心停止以前に本人の治療に関係のない侵襲性をともなう臓器保護のための処置がなされており、純粋に「死体」からの摘出であるとは言い難いことが知られている*7。ここでも本人の「生ける沈黙」は封殺されている。さらに、それが「死体」からの摘出であるとしても、意思不明ないし意思表示不能の場合に家族の承諾で摘出可能であることが、喪主に帰する埋葬のための管理権や特殊な所有権*8という法解釈上の合理化だけで正当化されるであろうか。特に意思表示不能の人の場合は、意思の推測や忖度すら可能ではない。つまり、旧法の角膜腎臓法についても、いわば沈黙が語り始めているのであり、この声に人々は気づき始めている。

 丸山英二氏は(丸山1978)、アメリカにおける判断能力の認められない子供からの生体腎提供の判例を論じている。そこで、裁判所が子供の生体腎提供を許可を判断する際に、子供の「最善の利益」を考慮するbest interest testに徹するならば、子供には何ら身体的な利益はなく、心理的利益だけでなく臓器の受容者の生存が子供にもたらす利益が確実なものとなされない限り、子供からの生体腎提供は許可されないのではないかと指摘している。また丸山氏は、裁判所が10歳以下の子供から兄弟への生体腎提供に関する親の判断を許可した二事例(Hart v. Brown,Nathan v. Farinelli)について、裁判所の判断が提供者本人だけではなく、受容者の利益をも利害衡量に加えていることを論難している。
 「この理論構成は全く不当なものである。……根本的に問題なのは、この構成が受容者の受ける利益と提供者の被る犠牲との比較衡量によって移植の可否が決定されることを是認している点である。成人について考えると、受容者に対する利益が提供者の払う犠牲より大きいからといって、提供者の同意もなしに臓器の提供が強制されるということは考えられない。それなのになぜ成人でないというだけで、未成年者は自分の最善の利益が確保される訳でもない移植手術に参加しなければならないのであろうか。この功利主義的な理論構成は、社会が大人には課していない義務を自分の子供に課することを、裁判所の審査に服するという条件で、その両親に許すものである。これは、潜在的に危険な医療行為からの保護を成人と同様に未成年者や無能力者にも与えようとする法の趣旨に全く反するものである。この理論構成を用いることは、社会において最も傷つきやすい者の保護を目的とする裁判手続を、成人ならば食いものにされないような場合に、彼ら弱者を食いものにするために利用することとなるであろう」(丸山1978)。
 では、死後(脳死後)の場合でどうであろうか(丸山1980)。アメリカ「統一死体提供法」1968は、18歳以上の場合は本人の自己決定権による臓器提供を第一次的なものとし、意思の不明な場合は、二次的にコモン・ローによる死体占有権を有する近親者に提供権を与えている。だが、18歳未満の場合には、コモン・ローの死体占有権を有する近親者の判断が第一次的なものとなる。18歳未満でも生前に提供を拒否する権利は否定されてはいないが、拒否の判断すらできない年少者の場合は近親者の自由に提供がなされる。ここでも丸山氏は、判断能力が認められない年少者の処遇に関して疑問を呈している。
 「……何か割り切れないものが統一法の態度に対して残るのも否定できない。幼い者に対して生存中は何とか成人と同じ法的保護を与えようと苦悩してきたのが、死を境にして、近親者(通常は親であろう)の任意になるというのは、もはやその幼者は死亡したのだから彼に危険は及びえないという事情や、彼は自分の希望が実現するという満足感を生前に味わうこともできない、という幼者と大人の差異を考えても、疑問は残る」(同上)*9。
 本人の利益(精神的な意味も含めて)のみに則すならば、意思表示不能の人々の臓器摘出は根拠が薄いのであって、移植の必要な人々の利益を考慮し、「功利主義的な理論構成」を採らなければ正当化できないことが見抜かれている。もちろん、移植に関する法律自体が移植医療を前提にしており、何らかの「功利主義的な理論構成」を採らざるを得ないことも確かであるが、それを踏まえても、摘出を許可する根拠の空洞性は無視できないだろう。

 町野案の論理は、意思表示不在ないし意思表示不能な人々の沈黙にそれなりに敏感であったが、底のところで、われわれはすでに臓器提供に自己決定していると設定することによって、沈黙を騙り封じ、沈黙への戸惑いを払拭してしまう。町野案は反対意思がないことと家族の承諾を必要とし、形式的には拡大意思表示方式であるが、沈黙を同意とみなすこと(推定同意presumed consent)において、思想的には反対意思表示方式であると言ってよいだろう。反対意思表示方式は、フランス、スペインをはじめ欧州諸国で採用されているものの、世論調査で提供意思が高い割合を示す国ですら反対が根強い(丸山1984)。沈黙への対応というわれわれの視点からみれば、反対意思表示方式は、「推定同意」という何らかの意思の前提と扱いを越えて、脳死身体や遺体を即時に医療資源というある種の「物」とみなすことにおいて、沈黙に面して沈黙を封じるだけではなく、沈黙そのものの抹消に向かっているように思われる。脳死状態の「生ける沈黙」や遺体の沈黙は沈黙すらできない非人称の「物」へと転じるのである*10。
 脳死身体ないし遺体を即時に非人称の医療資源とみなす途に通じる反対意思表示方式の対極にある解釈は、脳死遺体(脳死を人の死とするなら)や遺体に、その人が生前に有していた人格権の残存を認めるものである。「人格権の残存」という発想は、戦後旧西ドイツにおいてボン基本法や諸判例によって明示されてきたと言われる(岩志1985、金澤1984)。「人格権が死後にも及ぶということについて、西ドイツの連邦裁判所の二つの判例が参考になる。一九五四年十一月二六日のコジマ・ワーグナー事件判決は、生前の日記の公表について、『人格権はその本来の権利者の死亡後も効力を保つ。……保護に値する人格の諸価値は、死とともに消滅する主体の権利能力を越えて継続する』とした。同じく一九六八年三月二〇日のグリュントゲンス事件判決は、人間の尊厳の保護は時間的に人間の生存中にかぎられるものではなく、死後における伝記(Lebensbild)の歪曲に対しても死者の人格権が保護されるときにのみ人間の尊厳と人格の自由な発展が十分に保障されるのであるとした」(金澤1984)。宮崎氏によれば(宮崎2001)、人格権の残存説は、臓器提供など死体処分に関しての本人の意思が自己決定権によるものとして絶対的に尊重されるという点、また、死体自体が人格権の対象として、死体の一部が死者の所有権の及ぶ「物」として鄭重に扱われ、「礼意の保持」が保障される点の二つの利点を持っているとされる。この立場は、遺体にも「人間の尊厳の保護」を要求し、本人の意に反してあるいは意思の不在にもかかわらず、遺体が埋葬以外の目的で社会や近親者の任意で扱われることを禁じる意味において、われわれの視点である「沈黙」に対する考慮に即しているように思われる。人格権の「残存」という権利主体の不在においても権利の効力が現前するという構造は、死者の沈黙が生き残った者に対して懸念や動揺をもたらし続ける構造と重なり合うからである。だが、人格権の残存説が単に生前の本人の提供意思を絶対視するだけであるなら*11、自己決定権を切り札にした推進論理に籠絡される危険に対して無防備であろう*12。さらに、金澤氏は「……本人の決定は死後においても効力を保つのであり、むしろ、決定の変更や取消のありえなくなった死後においてこそ完全な効力を認められなければならない」(金澤1984)としているが、われわれが先に指摘した沈黙の一側面、つまり、本人の提供意思があったとしても臓器摘出を決定する際に本人は黙したままであり、それを再確認できないという沈黙がもたらす迷い(確認しようがないのであり法律的には考慮されないとしても)―「ほんとうにいいのだろうか」、「ほんとうによかったのだろうか」という迷いを無視できないように思われる。

U 聴く・沈黙を護る

 町野案に対して早くから本格的な反論と対案を提案しているのが森岡・杉本案(森岡・杉本2001)である。森岡・杉本案は提供意思条件に関して基本的に現行法の構図を保持し、法的脳死判定を受けることと臓器の摘出に本人の意思表示を大前提とする。したがって、意思不明ないし意思表示能力不在の場合は、脳死判定も臓器摘出もできない。森岡・杉本案は「沈黙」に関して直接言及している。人々は意思表示に迷っていたり意思表示したくない自由が認められるべきであり、「意思表明を『強制』されない権利、すなわち『沈黙』を守る権利」を有しているとし、意思表示のない人々の沈黙を沈黙として護ることを明示する。では、子供からの摘出はどのようにすればよいのか。森岡・杉本案は親といえども独断で子供の臓器を摘出することを許さず、あくまで子供の場合にも本人の提供意思表示を要求する。「子どもの生命は子ども自身のものであって、親のものではないから」(森岡2000a)である。最近親者であり保護し養育してきた親であっても、その一存で子供の生死を左右し、臓器摘出という強い侵襲性のともなう行為を許可することは虐待にも等しい越権行為である。親の願望と子供の希望は一線を画すべきである。だが、子供自身の提供意思を必要とすることは、単に大人の条件をそのまま延長し、「はんこと紙さえそろっていれば、あとは責任を免れるという考え方」(町野2000b)ではない。困難を承知の上で子供の意思を可能な限り救い上げ、同時に沈黙を護ろうとする努力である。「子どもの意見表明を真摯に聴き、最後までその線に沿って子どもの意見の実現の可能性を探る倫理的責務を、大人の側は負っているはずである」(森岡2000a)。
 しかし、子供に対して身体の処分権や死に関する自己決定権を認めるというのではない。子供において守られるのは自己決定権というよりも「意見表明権」である。森岡・杉本案は「児童の権利に関する条約」第12条 *13に依拠する。
 「第12条1、締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」。
 「児童の権利に関する条約」によれば、子供はある段階までは判断能力が不十分であり、完全な決定権を付与するのは困難である、そこで親や社会が子供に関する決定をすることになるが、その際、まず子供にとっての「最善の利益」が第一に考慮される。しかし、それは親や社会の一方的な決定であってはならず、各々の子供に即して「最善の利益」を実質的に確保するためには、決定過程において、発達に応じて子供自身の意見を聞き尊重することが不可欠になる(永井ほか1990:73-74頁参照)。これが「意見表明権」であって、「自己決定権」とは区別されている。したがって、森岡・杉本案は、子供からの臓器摘出の意思条件は、親の独断でも子供の自己決定でもなく、その中間の方法を採る。具合的には、
 「(a)意味のある意思表示をなし得る年齢の子どもが、(b)親権者とよく話し合ったうえで、(c)みずから子ども用のドナーカードにサインをしており、(d)親権者がその子どもの意思表示能力を裏書きし承諾するサインをしていたときにのみ、脳死の子どもからの臓器摘出が可能になる、とする」(森岡2000b)。
 この意思条件は15歳未満12歳以上か、あるいは最大限下げて6歳までにするかの二案が提案されている*14。加えて、子供が虐待*15で脳死になったのではないこと、本人の意思が強制によるものでないことを病院内委員会あるいは裁判所が審査することも必要とする。
 森岡・杉本案の提案者のひとりである小児神経科医の杉本健郎氏は、子供の意見表明権の保障を医療倫理の原則に置き換えて、インフォームド・アセントinformed assent必要性を唱えている(杉本2003:155-6頁)。インフォームド・アセントとは、患者が未成年や法的な無能力者の場合のインフォームド・コンセントに相当する。法的な義務づけはないが、その理念は「リスボン宣言」(原則5(a))*16で明示されており、小児医療、臨床試験の現場でも親に対するインフォームド・コンセントinformed consentないしインフォームド・パーミッションinformed permissionに加えて必要とされている(CESP2003,Zawistowski & Frader2003)。
 しかし、意見表明権にせよインフォームド・アセントにせよ、さしあたって子供の生存、治療などの利益が大前提であり、治験でさえ本人の生命を侵害するものは論外である。それを脳死後ないし「心停止後」の臓器摘出という決定的に死を招く侵襲性の高い行為の許可に適応できるのだろうかという疑問が生じる。そこで、たとえば慢性疾患のターミナル期にある子供で、緩和ケアに移行させざるを得ない場合であるなら、身体的にも心理的にも不快で負担のある処置や検査を拒否することはインフォームド・アセントのやり取りのなかで妥当とされるのかもしれない。この発想からすれば、子供の臓器摘出の意思を子供にとっての末期医療の選択肢として位置づけられるのかもしれない(西森2000)。しかし、それでも立ちはだかってくる困難は、情報提示の問題である。本人の提供意思を、12歳以上であればまだしも低年齢の学齢児童からも得ようとするなら、中立性を保ち、理解可能な仕方で情報を提示し、自由意思によって同意を得られる体制を構築するのは至難の業であろう。小児の理解力に即した情報提示と意思確認の体制づくりという課題は、森岡・杉本案やてるてる案(西森2000)*17のように本人の提供意思を原則とし、提供可能な年齢を下げる案にとっての最大のネックである。子供の意見形成は、情報の内容や提供者、提供される環境に強く左右され、意図すれば意見誘導は容易である。この点がおざなりにされるならば、町野案のように本人の沈黙を無視して臓器摘出するのに換えて、小児を沈黙から誘い出し意思を奪取することになるだろう。この課題に関しては本稿は扱いきれないが、杉本氏が参加している日本小児科学会の倫理委員会が取り組みを始めている。「日本小児科学会は関連する学会などと連携して、学会員自身の医師と健康小児への『生と死の教育』に取り組むべきである。命の大切さを子ども自身が考え、意見を表明できるような教育の場を保障し、われわれ小児科医もその教育の一端を支援し協力する時である。これについては日本小児科学会倫理委員会が取り組みを始めている」(杉本2003:170頁、さらに日本小児科学会2003参照)。

V 沈黙と倫理、沈黙と死の物語

 森岡・杉本案の共同提案者である杉本健郎氏は、小児神経の臨床医であるだけでなく、当時6歳のご子息の脳死を経た「心停止後」の腎臓提供を経験している。この二つの具体的な経験が杉本氏の提言を支えている。どちらもわれわれがキーワードにしている「沈黙」に深くかかわっている。
 まず、小児科医としての経験から、患者としての子供の立場の弱さに眼差しが向けられている。患者は医師に対して知識的にも権威的にも弱い立場にあるが、特に患者が子供の場合はなおさらである。医師や親の考えで医療方針や、生命まで左右されがちである。また、いわゆる障害のある子供たちは、特別な世話を必要としている。それゆえに世話する者の都合、社会の都合によって生活や人生を決定されてしまう。このような臨床経験からの反省がある。
 「日頃重い障害をもつ子どもたちや成人を診ていると、保護者の意見でいろいろな決断が下される。現在の貧困なわが国の福祉では総じて保護者の負担に依存し、親の決定が求められる。専門家として見たとき、けっして当事者の快適さや希望に添ったものとはいえない場合が多い。子どももまた弱者である。その意見表明の仕方や聞く耳を、これからの社会は努力してつくっていく必要がある。そういう視点が問われていると思う。けっして脳死臓器移植を遅らせ、邪魔する討論をしかけているのではない。むしろこの課題こそ、問題点が明確化し先鋭化しているからこそ、ここで国民的討論をしたいのである」(杉本2003:14頁)。
 「小児科では、子どもの自己決定権を親がもつ。親の考え方によって、末期状態が左右されてしまうのだ。中には輸血だけではなく、医学医療すべてを否定する宗教もある。いうまでもなく、いくらわが子でも私有物ではない。人格は別である。生きる権利、等しく最新の医療を受ける権利は子どもの側にあるのであって、親の考え方によって、生きる道を閉ざしてしまうのは許されないことである」(同上144頁)。
 杉本氏において、子供の弱さへの感応と子供の沈黙への考慮とは一体をなしているように思われる。そして、次のような一文には、沈黙への考慮が単なる意思確認の問題を越えて、黙する人に直面して深く倫理的な熟考に促されていることがわかる。
 「どんなに意識がなくても、言葉を話せなくても、脳障害がどんなに重くても、死に瀕していても、その本人が何を望んでいるかということである。それを専門家として、人間として、どのような援助ができるかという点である」(同上147頁、強調筆者)。

 杉本氏の主張を支えるもう一つの経験は、提供意思のないご子息の脳死を経た「心停止後」の腎臓提供である。臓器摘出は脳死状態からであれ「心停止後」からであれ、本人に苦痛を感じる意識がないとしても、それがすでに死であるとしても、侵襲性が強い行為である。杉本氏も「腹を切り裂き」と表現をしている。そのような行為を亡くなりゆく我が子に対して、本人は沈黙したままで提供の意思もないのにもかかわらず、親の一存だけで行ったことを杉本氏は繰り返し自問している。いまなお「後悔ではないが、整理がつかない」という。杉本氏は剛亮君の腎臓提供から三ヶ月後に、腎臓提供を決意した動機を次のように記している。
 「人間とは、絶望の中でもワラをもつかむ思いで、何かの可能性を見出そうとするものだ。やがて心停止を迎え、最愛の息子がこのまま灰になって、この世から姿を消してしまうのが、可哀相で仕方がない。それは悲しくて耐えられないことだ。やがて『剛亮がほんの短い間生きたこの社会に、何か貢献できることはないのだろうか、さらに剛亮の体の一部でもいいから、生き続けてくれる方法はないものだろうか』と考えるようになった。最後の望みであった。『死を認めなければいけない。でもその代わりにせめて臓器の一部でも生きさせてほしい』―あるいはこれは『取り引き』といえるかもしれない。親の勝手な判断と言えなくもないが、腎移植をお願いすることにした」(杉本ほか1986:178頁)。
 幼くして亡くなる我が子を腎臓提供という社会貢献に換えて生かすという動機は、杉本氏だけではなく、吉川隆三氏や柳田邦男氏の手記(吉川2001、柳田1995)からも一致して読みとれるし、おそらく我が子を亡くした他の多くのドナー家族も経験した動機であろうと推察される。だが、このような動機に本人の何らかの意思の裏付けがない場合、そして杉本氏のように冷静な自己分析を繰り返すならば、ドナー家族の心理は複雑なものになるように思われる。杉本氏の記述を時期を追ってみると次のような変化がみられる。
 「剛亮には、すでに自分の意思がなかった。しかし、自分の子どもだからといって、勝手に他人に臓器を提供していいのだろうか。まだどこかに迷いが残っている。結局、子の扶養者としての権限で、残された親の気持を素直に実行に移せばいいのだと自分を納得させていた」(杉本ほか1986:57頁、杉本2003:71頁)。―1986年。
 「父親の立場と小児科医の立場に加え、子どもの目線から当時の気持ちを整理し、子どもの権利を尊重する立場でわがことを反芻すると、次のような気持ちがもたげてきた。/ 親の勝手な判断で脳死状態に早々と終止符をうち、心停止状態をつくりだし、おまけに体から腎臓を二つ取り出したことが、剛亮本人が望んだ行為であったのか」(杉本2003:109頁)。―1999年。
 「親である私は、『生きた証を残したい』と移植を願い出ました。15年経った今でも、子どもの脳死に直面した親が勝手に臓器提供したことが正しかったのか疑問に思っています。親の気持ちとして、このまま体が焼かれ、灰になってしまうことが耐えられなかったのです。多くのドナーファミリーの想いと同じと思います。もう一つ、当時は気づきませんでしたが、親の悲しみ・無念さを『移植する』ことで少しでも和らげたいという親の身勝手な想いもありました。6歳の子どもの固有の権利を無視した行為であったとも取れます。この行為の思想は、パターナリスム(父権主義)です」(JDFC日本ドナー家族クラブつうしん第二号2000年、杉本2003:104頁)。―2000年。
 「人工呼吸器を止め、腹を切り裂き、臓器を取り出すという親の行動は正しかったのだろうか。この結論はまだ出ていない。一生かかって考え続け、それにこだわって生きていくつもりである」(杉本2003:113頁)。―2003年。
 すでに摘出を決定した時点で本人の意思がないために躊躇が感じられている。だが、臓器を提供して子を生かすという動機がまさる。十年以上経つと、本人の意思のないことへの疑問が明確になり、最近の回顧でははっきりと倫理的な批判が加えられている。科学者としてと同時に小児臨床医として、冷徹な自己視を続ける杉本氏の場合、本人に提供意思がなかったという沈黙が、臓器提供によって子を社会貢献させて生かすという動機ないし死の受容の物語*18による覆いを突き破って捉えられて来ていると言えるのではないだろうか。「一生かかって考え続け、それにこだわって生きていくつもりである」という杉本氏の現在の決意は、本人に提供意思がなかったという沈黙を、何らかの物語によって覆い隠さず沈黙のままに護ろうという沈黙への考慮の現れではないだろうか。

 最後に簡単ではあるが、死後の臓器提供の議論における沈黙の意義を考えてみたい。沈黙を考慮することは、単に提供意思の存否に摘出の可否を対応させればよいという課題を越えているように思われる。つまり、意思表示があるのかないのか、あるいは表示能力があるのかないのか、あれば提供に問題なく、なければ提供ができないという機械的な解法を越えて、沈黙という視点はより広い射程を持っているように思われる。
 沈黙は単なる無ではない。発話内容としては何も語っておらず、その意味では無ではある。しかし、沈黙とは、発話能力(口頭であれ文書であれ、さらに何らかの非言語的な表現であれ)があったのに語っていない、あるいは、発話能力を獲得する可能性があったのに語っていない、ということである。沈黙とは、発話可能性における発話の不在であり、つまり「誰かが沈黙している」という事態である。そして、発話内容としては何も聴き取れないにもかかわらず、遺された者はこの「誰かが沈黙している」という事態に接してなおも聴こうとして心を開いている。ここにおいて現れてきているのは、メッセージの不在にもかかわらずあるいはそれゆえに、遺された者と黙する者との間にすでに開かれていたコミュニケーションの回路そのものではないだろうか*19。かつて黙する者との間にコミュニケーションの回路は開かれていた。この回路のなかで、遺された者はメッセージを聴き取っていた。しかし、いまやメッセージはなく、コミュニケーションの回路そのものの空間性だけが浮かび上がってくる。遺された者はいまなお黙する者へ問いかけ、意向を尋ね、許しを得ようとする。しかし、黙する者は答えず、この答えのなさは聴こうとする者にある種の果てしのない負いをもたらすように思われる。さらに、この沈黙は遺された者の死者に関する「語り」に亀裂を生じせしめ、生きている者の語りを「騙り」として暴く力を持っているように思われる。本人は臓器提供について何も言っていないのに、臓器を摘出してよいのだろうか、よかったのだろうかという迷いは、黙する者とわれわれとのこのような関係性に由来するのではないだろうか。
 コミュニケーションの関係性を踏まえると、或る意味において死者はなお生き続け、遺された者はその者を聴こうとしている。死者はいわば黙した生者であって、生者に対する倫理性はさしあたり死者に対しても妥当する。「人格権の残存」説では、問題は個人の自律性尊重の原則のみに回収され、意思の存否に応じた摘出可否に単純化されがちである。だが、沈黙によって開示されるコミュニケーションの関係性の視点は、そのような機械的な解法を動揺させる可能性を持っているように思われる。たとえば、たとえ本人の提供意思があったとしても、摘出を決定する際に意思を再確認できないという沈黙がある。そのとき本人は脳死という生ける沈黙の状態であり、まったく無防備な状態である。臓器摘出がともなう侵襲性は、「礼意の保持」という注意事項を越えて、沈黙を聴こうとする者たちに衝撃を与える。また、遺族たちは、臓器提供して肉親の死を看取ったその後に続く沈黙のうちに遺される。「ほんとうにこれでよかったのか」という問いに答えはない。もちろん、本人の提供意思を条件とする法律下では法的な問題はないとしても、新鮮な臓器を医療資源として摘出するという行為に関して、法律的な正当化がすべてではないと思われる。ましてや本人の意思不明の場合の摘出に関しては、沈黙は鋭くわれわれに批判の眼差しを返すだろう。だからと言って、真正な意味において移植によってのみ救命可能な人々の事情を無視はできない。法改正の試みはいままさに「沈黙にもかかわらず」の抵抗を越えようとしている。数々の沈黙によって包囲されるわれわれの負いは、待機者の救命と移植医療の徹底した厳格さや透明性によってのみ、わずかに贖い得るのだろうか。

2004年2月20日

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