浮遊する自己決定C

四、自己決定概念の捉え直しに向けて

 脳死移植の法整備に関する議論において、自己決定概念には以上のように相反する複雑な意味が彫りつけられている。しかし、そうだとしても、脳死を一律人の死とし、本人の意思不明の場合は家族の承諾で足りる、とする町野B案の方向への法改変に反対しようとするならば、何らかのかたちで自己決定概念に依拠せざるを得ないだろう。だが、上述したような経緯によってゆがみを孕んでいる自己決定に頼ることの危うさも十分に自覚しておかなければならない。それでは、脳死移植において、自己決定を尊重すべきであるとする理念のあり方をどのように考えればよいのだろうか。
 自己決定の尊重が、当事者自身の決定を最優先することを意味するとしても、自己決定という事態を孤立化、実体化して捉えてしまうならば、それは「生命線」を絶たれ本来の意義を失うことになろう29。脳死状態での臓器提供の意思に関しての自己決定の場合、それが決定を囲む諸関係から遮断されて純粋に一個人の決断に還元されるならば、自己の死のリアリティーが欠如している中で、善意か無関心かの単純な選択になってしまい、強引な推進に容易に籠絡されてしまうだろう。また他方で、本人の自己決定に徹するならば、家族の承諾や拒否は不要であるといった意見も散見される30。これも自己決定を孤立化して捉えている例であろう。自己決定を正当に尊重するためには、自己決定の「生命線」とでも言われるべき諸関係に注目し、それを孤立化させないことが出発点となるだろう。この意味で、自己決定は「自己」の問題ではなく、むしろ「関係」の問題であるとも言えよう31。しかもこの場合、自己決定の持つ関係性は、二重の意味で理解される必要があると思われる。まず挙げられるのは、決定がなされる環境としての関係性である。自己決定がなされるのは最終的には一個人においてであるとしても、その決定は当然、それを取り囲む環境を関数としてなされているはずである。自己決定が、ある種の強迫、誘導、詐欺によってではなく、真正なものとして成り立つためには、環境としての関係性に注目し、その改善が継続的になされなければならない。例えば先に見た日弁連意見書が自己決定概念によって強調するのは、この意味での関係性への注目であった。脳死移植の場合、患者中心の医療に向けての医療環境の根本的な改善という医療一般の課題を初めとして、徹底した救急救命、移植必要性の確実な診断と厳密な脳死判定、法・ガイドラインの適切な運用、操作の意図を排した真摯な情報提供、厳格な検証作業と情報公開等が挙げられるだろう。
 だが、本稿が強調したいのは、自己決定に内属するもう一つの関係性、自己決定を尊重することの理念が持つ根本的な意義から由来する関係性である。それは自己決定の環境が整備されなければならないといった上述したような主張や懸念が形作っている社会全体に広がる雰囲気に関係している。自己決定を尊重することの根拠は、哲学史に顧みれば、そうすることが最も個々人の幸福につながり、社会全体の快楽の量も増大するからであるとか、人間が理性に従って自らの行動を制御できる存在であることに由来する尊厳性が要求するものであるとされていた。しかし、われわれの素朴な感覚に即して言うならば、われわれが個々人の決定や意向が尊重されるべきだと考える場合、そこには、功利主義的配慮や人間の「道徳性」といったものについての意識はなく、むしろ、個々人がその存在そのものから尊重されること、個々人それぞれの生活や人生や思いが、その人の存在そのものから大切にされることを願う気持ちがあるとは言えないだろうか。つまり、自己決定を尊重することの理念は、その根拠に、「他者」と共に生きることについてのわれわれ相互の了解が存するのではないだろうか32。そうだとするならば、個々人においてなされる自己決定は、われわれが相互に相手を大切にしようという社会の支えによって常に裏打ちされていることになるだろう。しかし、だからといって、このことが、個人の自己決定は社会のパターナリズムによって干渉されなければならないということを意味するのではない。自己決定を関係性から捉えてその意義を再構成することは、個人の自己決定に周囲の者や社会の意向を「対立させる」ことではない。そうではなく、自己決定が真正なものとして成り立ち、決定した個人がその決定によって真に満足できるような環境を形成しかつ監視するという意味において、個人の自己決定を「下支えする」sup-port関係性を開示し、確保することである。
 したがって、脳死を一律人の死とし、本人の意思不明の場合にも家族の承諾によって臓器摘出を可とすることに対抗して、本人の自己決定を優先するとしても、決して自己決定を孤立化させることなく、それを支える社会的関係性によって常に裏打ちしていく必要があるだろう。そのためにも、現行法が条件としている家族による同意は欠かすことはできない。それは本人だけではなく、家族の者にも家族自身の身に等しい脳死者の身体に対する自己決定権が存在するという観点から、本人と家族の二つの自己決定権33を認めるというよりも、自らによってはもはや自身を守るすべのない患者本人の提供への自己決定―「善意」―が真に活かされるために、脳死移植医療を監視し見守るためにも家族の拒否権が認められなければならないという理由からである。そして、もし児童以下の小児からの臓器摘出があり得るとするならば、その場合に決定を委ねられる親権者の自己決定(筆者修正)が、それを囲む社会的関係性によって幾重にも下支えされ、真正なものとして成立する場合においてのみであろう。

2000.09.09脱稿

29医療において患者・クライアント個人の決定が最優先されることがいち早く是認されはじめたのはアメリカ合衆国においてであるが、その際、司法判断は自己決定の権利を患者のプライヴァシー権に基づけていた。人工妊娠中絶に関する州の規制が女性個人のプライヴァシー権を侵害するとしたルー対ウェイド判決や、カレン裁判を初めとする一連の延命停止の措置を求める訴訟で、いわゆる患者の「死ぬ権利」が認められたのも、患者本人のプライヴァシーの権利が根拠とされていた。だが、生殖や生死の操作に関する決定権を個人のプライヴァシー権とすることは、問題が「公」から隔絶された「私」の領域に閉じこめられることによって、社会が十分な環境整備や支援を怠るという事態が懸念されてきた(高井裕之「関係性志向の権利論・序説―アメリカにおける堕胎規制問題を手がかりに―」(一)〜(三)『民商法学』九九巻三号〜五号一九八八年、Catharine A.Mackinnon,:Feminism Unmodified-discourses on life and law-,Harvard University Press, 1987,キャサリン・A・マッキノン、『フェミニズムと表現の自由』奥田暁子他訳、明石書店一九九三年、参照)。
30例えば註10で挙げた平野氏やバイオエシックスの紹介者の一人である木村利人氏の読売新聞紙面での見解(「臓器提供の『意思』尊重期待 (論点) 」読売新聞一九九七年十月十五日朝刊)、さらに意外にも、法施行後の第一例目となった高知赤十字病院の主治医である西山謹吾医師が、厚生省第二四回臓器移植専門委員会で同種の意見を述べている(厚生省第二四回臓器移植専門委員会議事録二〇〇〇年二月八日)。
31江原由美子「『自己決定』をめぐるジレンマについて」『現代思想』一九九九年一月号。
32自己決定の原則を根本から再考するためには別稿を待ちたい。この種の課題に関する重要な研究として以下のものが挙げられる。立岩真也『私的所有論』勁草書房、一九九七年。江原由美子編『生殖技術とジェンダー・フェミニズムの主張 3』勁草書房、一九九六年。最首悟『星子が居る』世織書房、一九八八年。土屋貴志「『本人のため』の『自己決定』」京都新聞一九九八年十一月六日朝刊「思想の進行形・生命操作(7)」。高井裕之前掲論文。竹内章郎「死ぬ権利を相互承認し得るほど人類は進歩していない」第四回日本臨床死生学会/第一七回日本医学哲学・倫理学会合同大会一九九八年十月。Milton Mayeroff:On Caring,Haper & Row,1971(ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』田村真・向野宜之訳、ゆみる出版、一九九八年)。Maria Mies & Vandana Shiva:Ecofeminism,Halifax,1993(抄訳「自己決定―ユートピアからの終焉?」後藤浩子訳『現代思想』一九九八年五月号)、など。
33石原前掲書一九三−二〇一頁二九五−六頁、平林勝政「臓器移植の比較法的研究―各国立法の小括と〃承諾〃権の一考察」『比較法研究』四六号一二五頁、参照。

 

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